六、開カレツルニ 叩クトハ

 イエスはいう『叩けよ、さらば開かん』と。この約束がどんなに有難いものであるかは、伊いうを俟たぬ。だから、この教えでも感謝に余る。だが、もっとこの真理を深く見詰めると、叩くという私の行為が因で、開かれるという神の行為が果たして現れるのであろうか。『さらば』という言葉の挿入は、そう受け取れてしまう。だが、神こそは一切の因ではなかったか。むしろ開かれているのが先で、叩くのが後だという考え方が正しくはないか。叩こうが、叩くまいが、それにかかわらず、何時でも、何処でも、誰にでも開いて待っているのが、神の慈しみの扉ではないのか。叩くという行為は、既に開かれている事実を裏書きしているに過ぎまい。叩くから開かれるのではなく、何時だとて開かれているのが、無上の扉である。閉ざされたり、開かれたりする扉ではない。閉ざされていると思って叩くのは、人間の無明の致すところ、扉には、人間の考える因果の道理はあてはまらぬ。それは、無上の扉なのである。だから開かれている中で叩いているという幸いの妙理を味わうべきであろう。
柳 宗悦『南無阿弥陀仏』より抜粋

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