十五、ドコトテ 御手ノ 真中ナル

 『御手』というのは、仏の御手でも、神の御手でも、菩薩の御手でもよい。私が何処に在るも、何処を向くも、居るその個所が、御手の真中であるというのである。『私が』といったが、それは誰であってもよいのである。つまり人間の真の存在は、無上なるものの掌の中に在るというのである。ここで『真中』というのは、左右の中間とか、上下の中程とかいう意味の『中』ではない。そんな中なら、無上とはいえぬ。ある聖者が『神は至る所に中心を持つが、何処にも周辺を持たぬ』と言ったが、そういう周囲を許さぬ中心が、それ自身の中心なのである。ここに吾々の心の故郷がある。ただその事実を知らぬために、二元の巷に、あたら彷徨っているにすぎぬ。『中』は二元と次元を異にするものである。かかる中を去って解脱はない。だが解脱とは、新しい獲得ではなくして、本来あるがままの境に帰ることである。その故郷の『中』そのものである。仏教に中道が説かれる所以である。

柳 宗悦『南無阿弥陀仏』より抜粋

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