一ノ五 古人いはく、聞くべし、見るべし

ある日、教えを示していわれた。

古人は次のようにいっている、「聞くがよい。見るがよい」と。また、次のようにいっている「経験したことがないなら、見るがよい。見た事がないなら、聞くがよい。」と。そのいう意味は、「聞くよりは見るがよい。見るよりは経験するがよい。まだ経験したことがないなら、せめて見るがよい。まだ、見たことがないなら、せめて聞くがよい」ということである。

また、次のようにいわれた。

仏道を学ぶ心がけは、本来的な執着を投げ捨てる事である。自分の体の姿勢・動作を正しくすれば、心もこれに応じてただしくなるものだ。まず、戒律に従って正しい生活をすれば、心もこれに応じて改まるものだ。宋の国では、俗人たちの一般の風習として、亡くなった父母への孝養のために、先祖代々の霊をまつる廟に皆が集まって、泣くまねをしているうちに、やがて本当に泣いてします。仏道を学ぶ人も、そのはじめから道を学ぼうとする心構えが無くても、ひたすら未知を求め学ぶように努力していれば、やがては本当のこころがまえができてくるものなのだ。

初心の学道の人は、ひたすら皆の者と一緒に同じように修行していればよいのだ。修行の心得とか、手本としべき昔からの先例とかを、知ろうとする必要は無いのだ。このような修行のための心得とか手本となる先例などというものは。ただひとりで山に入り、あるいは市井にかくれて修行しようとするとき、よく知っていれば間違いがなくてよい、というだけのことである。皆と一緒に修行していれば、仏道を得ることができるとしたものである。たとえば、船に乗って行く場合、手本とすべき先例も知らず、進み方も知らずとも、良い船頭にまかせてゆけば、よく知っている者もよく知らぬものも、同じように、目的の岸に到達するごとくである。高徳の賢者に従って、私心なく皆の者と一緒に修行すれば、おのずとそのまま仏道の人であるのだ。

道を学ぶ人は、たとえ悟りを得ても、これでもうよう良いと思って、修行をやめてしまってはならぬ。道は、無窮なのだ、悟っても、なお修行しなくてはならぬ。昔、中国で立派な学僧であった良逐座主が、麻谷山宝徹禅師に参禅した因縁を考えてみるがよい。

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