次のように思い浮かべて下さるとよい。
ある人が僧に『仏様は何処にいられるのでしょうか』と尋ねた。するとその僧は即座に『お前はどこにいるのか』と反問した。誰でも仏といえば、すぐそれが誰で、何処にいるのかと心に尋ねる。その居場所は、繰り返る千古の問いだともいえる。だが、かく問う私の居場所は一体どこなのか、まずこれを省みずして、仏の居場所など、どれだけの意味が残ろう。まして仏の居場所が何処か他にあるとすると、私を去ること遠いであろう。
はたと気づけば、自分の居場所以外に、仏の居場所など、あろうはずはあるまい。私の居場所をつきとめる時と、仏の居場所を見出す時とは、同時であって別時ではあるまい。私を離れた仏など、もともと二次的なものに過ぎまい。同じように、仏を離れた私など、意味の浅い私に過ぎまい。衆生のいる所に、仏があり、仏のいる所に衆生が在ろう。
だから仏の居場所を知ろうとする者は、何より自らの居場所を見つめるべきである。仏を遠い世界に探る如きは、仏法の領解とはいえぬ。
柳宗悦『南無阿弥陀仏』より抜粋