人々は西方浄土をあこがれる。なぜ西なのか。太陽が沈む彼方を連想するからである。丁度光といえば、日の出づる当方を想い見るに等しい。だが西という言葉に囚われては、二義的な西に沈んでしまう。無上の浄土は、東に対する西というが如き二元の場所ではあるまい。東西の二も絶えて、その西でなければならぬ。西のみに西があるのではない。至る所に西がなければなるまい。何処を向くとも、向く所が西であるはずである。そういう西をこそ、浄土だとなじめて呼べよう。東も南も北もみな西だと分からせて貰う時、浄土の真中にいることが分る。だから何処におるも『中』にいることが、西に往いて生まれる意味である。だから、『中』も、東西の真中などにはいまい。方角の西など、譬え以上のものではあるまい。指方立相というが、無方の方に西を観ぜずは、西方浄土とはならぬ。だから『無方の方』などに囚われてもまた、西方浄土を見失うに至る。
柳 宗悦『南無阿弥陀仏』より抜粋
※指方立相・・・釈尊に約していえば、「指」は指示、「方」は方処、「立」は弁立、「相」は相状をいい、釈尊が「西方」という方処を指して阿弥陀仏の浄土の荘厳相を教示されていることをいう。
また、阿弥陀仏に約すれば、「指」は指定、「方」は方処、「立」は建立、「相」は相状である。すなわち、阿弥陀仏は此土からいって西方という方処を指定されて浄土を建立されたことをいう。
そこで、『定善義』像観の「等唯指方立相、住心而取境。」の文は、釈尊に約して指方立相が語られており、『安楽集』に「法蔵菩薩願取西方一成仏今現在彼。」とあるのは、弥陀に約して語るものといえよう。
〔論点〕
(一)西方の意義
ここでいう「西方」とは、東西南北四維中の西方であって、方処を指すのである。阿弥陀仏の浄土は『仏説阿弥陀経』に「従是西方」とあるように此土を基点として指示したものであり、須弥山説によって論じられたものである。従って天動説による立場である。しかし、地動説を常識とする現代の人にとって、従是西方をいかに理解すべきであろうか。
これについて『安楽集』に「以閻浮提云日出処名生没処名死…中略…是故法蔵菩薩願成仏在西悲接衆生。」とあるように、日の没する処という地理的方処に即して、宗教の領域としての方処と領解すべきである。『往生礼讃』「前序」にある「須面向西方者最勝、如樹先傾倒必随曲、故必有事礙不及向西方、但作向西想亦得。」との文は、西方を宗教的に受けとめることを教示しているのである。
ところで『浄土論』には浄土について「究竟如虚空広大無辺際」とあり、『論註』には「此浄土随順法性不乖法本」と説かれている。これによると、阿弥陀仏の浄土は無相無辺と説くのである。それでは無相無辺と、西方の荘厳国土とはどのように理解すべきなのであろうか。云いかえれば、真如法性と願心荘厳の関係を、どう領解すべきかということである。これについて『論註』は真如法性を略とし、願心荘厳を広として広略相人の論理を展開している。その説明として、『論註』は略を法性法身とし、広を方便法身として、いわゆる由生由出、不一不異と示すのである。このことを思惟すると、浄土は無方即方、方即無方であり、無相即相、相即無相であるといわれるのである。
ただ、方即無方・相即無相の知見は、悟りの世界の所見である。そこでこの迷界の衆生に対して、方即無方の方と、相即無相の相で応じるのが指方立相の立場なのである。
従って、衆生においては西方浄土に願生するのであるが、如来の本願力により、無生の生の浄土、無量光明土へ証入せしめられるのである。この論理を言いあてているのが、いわゆる『論註』の氷上燃火の釈なのである。