平たくいえば、阿弥陀仏がこの私を、見初めて下さったというのである。だが誤読してはいけない。ゆめゆめ自分の自慢などをしてるのではない。私が立派なので、阿弥陀仏が私を愛して下さっているのだというのでは決してない。まさにその逆なのである。底下の凡夫、罪悪深長の身であればこそ、不憫に思われて、私に目をつけて下さったのだというのである。しかしこの幸いは私だけの幸いだとて、自慢するのではない。実は誰だとて、この偈を口ずさんでよい。誰だとて、罪ある者なのであるから。だから誰だとて、仏の恋人なのである。しかしその中でも、わけてもこの私がそうであるというのは、私より罪深いものは他にあるまいと、考えるべきだからである。この私が誰であろうと、私をこそ見初めるのが、弥陀なのである。この運命から離れられない事情に、今私があるのである。公教の詩人フランシス・タムスンは、神を「怖るべき恋人」と歌ったが同じ心である。母が不具のわが子を、わけても不憫に想う心を察すれば、この真理は、いとも明らかに肯われるであろう。
柳 宗悦『南無阿弥陀仏』より抜粋
無想・無念・無住