教え示していわれた。
仏道を学ぼうとする人は、決して衣服や食べ物を、むやみに欲しがってはいけないのだ。人には、それぞれ、その人の一生涯の食べ料がそなわっており、また、寿命がそなわっているのだ。それぞれ与えられた分限以上の食料や寿命をほしがっても、決してえられるものではない。まして仏道を学ぶもの人には、施主からの供養があり、また、つねに托鉢して食を乞うことを絶やすべきではないし、また、寺院の共有財産として田園や雑具がある。私的な営みをするまでのことはないのである。木の実、草の実と乞食(托鉢)と信者からの布施という三種の生活資は、みな清浄の生活資である。そのほかの農業や商業や仕官や職人の仕事という四種は、修行者にとっては、生活資を得る正しい在り方のものではなく、そうして得た生活資は不浄のものである。出家人の生活資たるべきではないものである。
昔、一人の僧があった。死んで冥土に行ったところ、閻魔王が、「この人の寿命は、まだ尽きていない。娑婆へ帰すがよい」といった。ところが、閻魔の庁の役人の一人が「寿命はまだありますが、食べ料の方は、もう尽きています」という。閻魔王は、「蓮の葉を食べさせるがよい」といった。このようなわけで、その僧は蘇生したのち、人間の食べものを食べることができず、蓮の葉だけを食べて、残りの寿命を保った。
このような次第であるから、出家人というものは、仏道を学ぶという、その功徳の力によって、食べ料も、つきるということがないものである。これは、経にとかれているように、釈尊が、その三十二相のうちの百ごう相の一分を諸々の仏弟子たちに供養せられたおかげによるのであり、また、釈尊が、その百年ある寿命を二十年あえて縮めて後の世の仏弟子たちに施しを遣わされた恩によるであって、これは、どんなに長い長い時の間、いただき受け用いても、つきるということがないのである。故に、出家人たるものは、仏道修行に専一して、衣食を求むるべきではないのである。
身体血肉さえ、よく保てば、心も随ってよくなると、医学の諸にも多く見えている。まして、仏道を学ぶ人は、戒をまもり清らかな行いをして、仏祖の行いのとおりに随い、その身をととのえるならば、心もそれに随って整うことになる。
仏道を学ぶ人は、ものをいおうとするときには、いう前に、よくよく考えて、自分のため相手のためになると思ったら、はじめて言葉に出すべきである。よくないと思ったら、いうべきでない。このようなことも、一挙にはできない。心がけて、段々と習熟すべきである。