一ノ六 学道の人は後日をまつて、行道せんと思うことなかれ

教えを示していわれた。

仏道を学ぶものは、後日まって修行しようと考えてはならぬ。ただ、今日ただいまの時を空しく過ごすことなく、毎日毎日、毎時毎時、つとめはげまなくてはならぬ。ここにある在家人で、長い間、病気の人があったが、去年の春のころ、私に誓っていうようには、「この病がなおったら、妻子を捨て、寺の近くに庵室をつくり、毎月二度の持戒懺悔の集会にも出席し、毎日の修行や教理の説法など見聞し、分に随って戒律を守り、生涯を送りたい所存である」といった。が、その後、いろいろ治療したので、病気が快方に向かったのであるが、やがてまた病気が重くなり、仏道修行もできないまま空しく月日を過ごした。今年の正月から俄かに重態となり、病苦がひどくなった、常日ごろ準備していた庵室用の道具を運んで庵室を構える暇もなく、病苦のはげしきままに他人の庵室を借り受けて、そこに移ったが、わずか一、二ヶ月の間に、死んでしまった。それでも死ぬ前夜には菩薩戒をうけ、三宝に帰依して、正式の仏弟子となり、臨終は立派にして亡くなったから、在家のままで妻子への愛着に心も乱れて死ぬよりは良かった。しかし、去年思い立ったとき、在家の生活を離れ、寺に近づき、僧団の生活にも親しみなれて、一年間、正式に仏道修行して亡くなったのなら、もっと良かったと思われる。それにつけても、仏道修行には後日を待つということではいけないと思うのである。

自分が病気であるから病をなおしてから、立派に修行しようと思うのは、道心のないことの致すところである。人間の体は、地水火風の四大元素の和合から成り立っているのであるから、誰でも、病気にならぬというわけにはゆかない。昔の人、必ずしも筋金入りの体ではない。ただ、志が切にひたすらなので、ほかの事は忘れて修行に打ち込んだのである。大事にぶつかれば、小さなことは、物の数ではない。仏道を大事と考え、生あるうちに窮めようと思って日々時々を、むなしく過ごすまいと、考えるべきである。

古人もいっている「光陰、むなしく渡ることなかれ」と。病身の人が、病をなおそうとしている間に、むしろ病気が重くなって、苦しみがひどくなると、苦痛が軽かったときに仏道修行をしないで残念であった、と思うのである。だから、病苦を受けては、重くならない前に修行しようと思い、重くなったら死なない前に修行しよう、と思うべきである。病気は、治療すれば治るものもあり。治療しても、重くなるものもある。また、治療しないでも治るのもあり、治療しないと重くなるのもある。病気とはこういうものだ。よく考えてみるが良い。

また、仏道修行のために居所などをしたくしたり衣服や食事、道具などを整えたりしてから、修行しようと考えてはいかぬ。貧しい人は、このような私宅準備のため、無理をする必要はないのだ。衣鉢の装具が足りなくても、死の時期は毎日近づいているのだ。装具が揃い庵室ができてから仏道修行しようと考えているうちに、一生は空しく過ぎてしまうではないか。それでよいのか。衣鉢などが無かったら、在家でも仏道修行はできるぞと考えて、修行すべきなのだ。また、衣鉢などというものは、僧としてあるべき形を整える飾りにすぎない。まことの仏道は、こんなものにはよらない。入手できたら、あってよい。無理して手に入れようとしてはならぬ。入手できるのに、持つまいなどと思ってもならぬ。わざと死のうと思って、病を治療しないのも、また仏道にそむいた考えである。仏道は、「命を惜しんではいけないし、命を惜しまないでもいけない」というのだ。機会があれば、灸を一所もすえ、煎薬一種を服用することは、仏道修行のさまたげとはならない。行道をさしおき、病を先に治してからの修行しようと考えることが、いけないのだ。

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