十六、真向ケヨト 云ヒ給フ

真宗で仰ぐ阿弥陀如来を『お真向き様』という。真正面に、吾々に対して佇む御姿だからである。だが仏もまた私たちに向かって『真向けよ』と囁いているのである。

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十四、六字トナ 無学ナルニ

南無阿弥陀仏と称えるということは何なのか。称える自分もなく、称えられる六字も忘れ、ただ六字になりきることである。だから六字さえなく「無学」に帰ることである。

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十三、六字六字ノ 捨場カナ

南無阿弥陀仏と称えるということは何なのか。何か功徳を希ったり、酬いを求めたりする念仏なら、念仏とだにいうことは出来まい。「六字六字」がその捨て場なのである。念仏に活くるとは、己れを六字の中に捨て切ることである。

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十二、嬉シ 悲シノ 六字

『六字』の名号を称えることは、身に余る悦びのはずである。何故なら、この易行の道で、凡夫を済度しようとする仏の慈悲行の現れだからである。それにあずかることより、凡夫にとっての悦びはないはずである。だが嬉しさだけが想いなら、

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十一、トマレ 六字

『トマレ』は『とまれかくまれ』の略、『とにかく何があろうとも六字を称えることだ』という意味である。これ以外に、凡夫が成仏を遂げる道はない。『六字』とは、もとより南無阿弥陀仏の六字であるが、元は梵語で、これを和訳すれば『無

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十、弥陀モ 六字ノ 捨草ヤ

「六字」というのは、南無阿弥陀仏の六字である。これを名号という。この文字を称えることを称名という。下凡の者を、仏の恵みに浴させるために用意された、仏への易行道なのである。大した道ではないか。誰だとて、口で南無阿弥陀仏と称

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九、見初ムトモ 弥陀 コノ吾レヲ

平たくいえば、阿弥陀仏がこの私を、見初めて下さったというのである。だが誤読してはいけない。ゆめゆめ自分の自慢などをしてるのではない。私が立派なので、阿弥陀仏が私を愛して下さっているのだというのでは決してない。まさにその逆

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八、想へ誰ゾ 御仏ノ マラウドト

「マラウド」とは賓客の義である。「とく考えよ、経は誰が御仏の正客なのか」という意味である。それが誰であろうと、何時のことであろうと、何処の場所であろうと、このふつつかな私こそ、今日行われる仏の大蓮華会の正客に招かれている

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