八、想へ誰ゾ 御仏ノ マラウドト
「マラウド」とは賓客の義である。「とく考えよ、経は誰が御仏の正客なのか」という意味である。それが誰であろうと、何時のことであろうと、何処の場所であろうと、このふつつかな私こそ、今日行われる仏の大蓮華会の正客に招かれているのだという意味である。だが思い誤ってはならぬ。人間にそんな立派な資格があって、招待を受けるのではない。仏の座につらなる特権など、もともと誰が持ち得るであろう。罪業から離れ得る身ではないのだ。善導大師の言葉を借りれば、まさに「出離の縁なし」と言い切るべきものであろう。だが、絶望してはならない。弥陀の慈悲は、そういうみじめな者をこそ、誰よりも目当てにして下さるのである。だから罪悪の身であればあるほど、仏の慈悲がふりかかる。そのことは、自分が誰よりも先に、仏の正客に招かれていることを意味しよう。招かれているのは誰だと思う、この底下の凡夫たる自分をおいては、他にないのである。この自分が誰であろうとも。
柳 宗悦『南無阿弥陀仏』より抜粋