八、想へ誰ゾ 御仏ノ マラウドト
「マラウド」とは賓客の義である。「とく考えよ、経は誰が御仏の正客なのか」という意味である。それが誰であろうと、何時のことであろうと、何処の場所であろうと、このふつつかな私こそ、今日行われる仏の大蓮華会の正客に招かれている
Read more「マラウド」とは賓客の義である。「とく考えよ、経は誰が御仏の正客なのか」という意味である。それが誰であろうと、何時のことであろうと、何処の場所であろうと、このふつつかな私こそ、今日行われる仏の大蓮華会の正客に招かれている
Read more誰も考えるが、我々が道を尋ね、法を慕い仏を迫うて、様々な努力を重ねるという。まさにそう見えるものであるが、しかし私が、よし仏を追っているとしても、実はそれが、「仏が吾々を追い」、「仏に追われている」その姿なのではあるまい
Read moreイエスはいう『叩けよ、さらば開かん』と。この約束がどんなに有難いものであるかは、伊いうを俟たぬ。だから、この教えでも感謝に余る。だが、もっとこの真理を深く見詰めると、叩くという私の行為が因で、開かれるという神の行為が果た
Read more人々は西方浄土をあこがれる。なぜ西なのか。太陽が沈む彼方を連想するからである。丁度光といえば、日の出づる当方を想い見るに等しい。だが西という言葉に囚われては、二義的な西に沈んでしまう。
Read more指すは目指す意で、都を求めて遠い旅へ出ることである。昔であったら、長安に通じる大道に出たいとか、ローマは何処かと尋ねる心である。
Read more心が追い求める都は、何処に在るのだろう。都は遥けき彼方にあるとも思えるのである。 だが、ほんとうにその都に憧れる心とは、そもそも何であろうか。考えると、この問いを持たなくば、都は無いに等しいではないか。
Read more次のように思い浮かべて下さるとよい。 ある人が僧に『仏様は何処にいられるのでしょうか』と尋ねた。するとその僧は即座に『お前はどこにいるのか』と反問した。
Read morephoto credit: MShades 仏法に【諸法無我】という教えがあるが、仏教の示す最も根本的な真理の一つを語るものである。
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