- 第10話 【忘れてはいけない「手放し」】
- 一ノ七 海中に龍門といふ処あり
昔、空也上人は、念仏の道を問われた時、『棄ててこそ』とただ一語いわれたという。仏法について、否、凡ての宗教につ...
名号に身を投げ入れる暮らしとは、何なのか。とこしなえに自己が休むことである。だから凡のゆる煩悩が、煩悩のままで...
真宗で仰ぐ阿弥陀如来を『お真向き様』という。真正面に、吾々に対して佇む御姿だからである。だが仏もまた私たちに向...
『御手』というのは、仏の御手でも、神の御手でも、菩薩の御手でもよい。私が何処に在るも、何処を向くも、居るその...
南無阿弥陀仏と称えるということは何なのか。称える自分もなく、称えられる六字も忘れ、ただ六字になりきることである...
南無阿弥陀仏と称えるということは何なのか。何か功徳を希ったり、酬いを求めたりする念仏なら、念仏とだにいうことは...
『六字』の名号を称えることは、身に余る悦びのはずである。何故なら、この易行の道で、凡夫を済度しようとする仏の慈...
「六字」というのは、南無阿弥陀仏の六字である。これを名号という。この文字を称えることを称名という。下凡の者を、...
平たくいえば、阿弥陀仏がこの私を、見初めて下さったというのである。だが誤読してはいけない。ゆめゆめ自分の自慢な...