十七、南無阿弥陀仏 イトシヅカ

名号に身を投げ入れる暮らしとは、何なのか。とこしなえに自己が休むことである。だから凡のゆる煩悩が、煩悩のままで、静けさをうけることである。煩悩を断ち切ろうとすれば、それがあらたな煩悩の一つとなって、戻ってこよう。それはそれとしておいて、名号に身を任せるのである。その時心は決定して、動く中に動かぬ静けさを与えられよう。だから南無阿弥陀仏を事々しくしてしまったり、また行々しく考えたりしてはいけない。事もない境地をおいて、六字の意味がどこにあろう。六字の暮らしとは、詮ずるに事なき暮らしに浸ることである。ここに至るまでに、どんな波瀾があろうとも、六字の境はいとも静かである。坦々とした尋常そのものなのである。ここではついに、六字もまた静けさに帰るのである。高声の念仏とか、称名百万遍とか、種々説く人もあるが、声にも数にも六字はいまい。静けさそのものこそ六字の本体である。

柳 宗悦『南無阿弥陀仏』より抜粋

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